『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后
狭穂姫命が同天皇5年に
薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の
丹後国を含む広義の
丹波国)から
後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に
立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。またその葬儀に際しては、それまで行われていた
殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、
野見宿禰が生きた人間の代わりに
埴輪を埋納するように進言したため、その
陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという
[ちなみに「仁を垂れる」という意味の「垂仁」という漢風諡号はこの故事に因むものである。]。